第40回 長崎料理ここに始まる。(十二)

一、はじめに



▲平安清峰煎茶碗(越中文庫)


 今回も前回に引き続き長崎県下の食文化を記録させて戴くことにした。


 五島の歴史は古く古事記、風土記にも既にその地名が記されている。そこには、五島の古名で値嘉島(ちかしま)とある。値嘉島の由来については同書に「景行天皇(六世紀の頃)志式島(現在の平戸市志々伎町宮浦)の行宮(あんぐう)に在り、海中に八十余島を見られ、之の島・遠しと雖も(いえども)猶近く見ゆ、値嘉と言うべし。そこには八十余の値嘉島あり、小値嘉には領主大耳、大値嘉には垂耳あり。島には船停二ツあり。一ツは相子田浦(現在の青方)、一ツは川原浦(岐宿町川原)。又、遣唐使の船は美禰良久(三井楽)に至る。値嘉島の浦には鮑(あわび)螺(さざえ)、鯛、鯖、雑魚、海くさ等あり。この島に住する者は白水郎。容貌は隼人に似て恒に騎射を好む。その言語・俗人に異なる」と記してある。この文より古代五島方面に居住していた人達は、初期の日本民族としては早くより大陸の異民族の人達に接していたのではなかろうか。


 五島と大陸の文化交流の手じかにある資料としては長崎県教育委員会編の「考古学遺跡一覧」によると、次のように五島における縄文遺跡は大陸に面した県下離島の中では一番多い。然し弥生・古墳時代遺跡になると其の数は減少している。




 次に大崎熊雄先生著の「長崎県の和牛」によると「福江市の大浜貝塚より箱式石棺風のものに人間の遺体と共に牛の遺骸が葬られており、死者の祭りに牛が一緒にいたという事は日本最古のものであろうと九州大学の鏡山教授、同志社大学酒詰教授が折紙をつけられた」と記しておられる。


 牛馬が大陸より我が国に渡ってきたのは縄文時代からという。その遺跡が福江島にある事は之も大陸文化と五島との農耕・食文化の交流を物語る資料とかんがえてよいものである。



二、五島の食文化


 風土記には五島(値嘉島)の産物として次の名をあげている。


 檳椰・木欄・梔子・木蓮子・黒葛・篁篠・荷あり。海には鮑・螺・鯛・鯖・雑魚・海藻・海松・雑魚菜あり。牛馬に富む。


 五島の地形は米麦の耕作には適しなかったので、農耕を中心とした前記の弥生・古墳時代遺跡数にみるように五島における同時代の遺跡数が減少しているのであろう。


 然し五島の港は古代の韓国に渡る交通の要路であったことは万葉集十六巻に美禰良久(みみらく)より舟を出し対馬に渡ろうとて海中に歿した筑前志賀村の白水郎荒雄追悼の歌に次のようにある。


 みみらくの我が日の本の島ならば けふもみかげにあはましものを


 次に遣唐使の南路として大津浦(博多)より五島経由の航路が定まったのは宝亀七年(七七六)頃からであったと記してあるので之の頃より五島の食文化にも異国食文化の影響が次第にみられるようになったと考えている。



三、大宝寺のシソの葉千枚づけ



▲伊万里焼小壷(越中文庫)


 私が五島の文化財を訪ねて各方面の先生方にお世話になったのは昭和二十五年の後半からであった。当時、五島玉之浦の大宝寺室町時代の年号応安八年(一三七五)の年号を刻んだ県文化財の梵鐘や其の他古文書もあるとお聞きしたからである。大宝寺は弘法大師が大同元年(八〇六)唐より帰国の時、我が国に上陸され立ち寄られた寺であるとされている。


 この時、大師は唐の国より持ち帰られた当時の我が国にはなかった薬草シソの実を寺に植え、一日祈願の護摩を焚き、其の薬草シソの葉の「千枚づけ」の製法を寺人に教え、其の製法が今に伝えられているとの事。


 当時、若い私が其の製法をお尋ねしたところ、八十三才の老僧四十三世川端覚禅老師は心よく次のように教えて下さった。


 「シソの葉ができる夏の土用のうちに、寺内関係者の人達がご奉仕で其の葉を摘まれ、きれいな寺の水で洗い、一枚ずつ丹念に型を整え塩であさく漬ける。それを二十枚ばかりずつ一括りにし、外を昆布で巻き、其の上を糸で巻き、壊れないように結んで味噌がめに漬け込む。そして翌年の三、四月頃には浸けあがるので、寺では先ずご仏前に供え、お経をあげ、弘法大師様に感謝し、それから皆様にお分けするのです。」と言われた。


 大宝寺の前は大海原であった。この大海を大使は荒波を押し渡り、順風を神仏に祈って千年前にこの浜辺に帰ってこられたのであると言われる。其の御形見が「大宝寺のシソの葉千枚づけ」であり、今私たちに此のシソの葉は何か教えられているようである。



四、イモと鰯


 長崎の人達は五島の名物と言えば「イモと鰯」という。イモには山イモ、里イモ、からイモ等の呼び名がある。からイモの名は唐人船によって唐より持ち渡られてきたイモの意である。それでは其のイモは何時頃から我が国の何処に最初持ち渡られてきたのであろうか。長崎県指定史跡地の一つに「コックスの甘藷畑跡」というのが平戸市にあり、次のように説明してある。


 内地で最初に甘藷が植えられた畑であると言われている。・・・指定地は平戸千里が浜に接する鳶の巣と呼ばれている所にある。(平戸市川内町)


 そして其の甘藷を持ってきた記録は平戸イギリス商館長「Cocks Richardの日記・1615.6.2」の日記録にありと説明されている。


(以下次号)


第40回 長崎料理ここに始まる。(十二) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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