第39回 長崎料理ここに始まる。(十一)

一、はじめに



▲有田焼小鉢(越中文庫)


 前回に引き続き長崎県下の特色ある食文化を取りあげ書かせて戴くことにした。


 県内各地の食文化は、先輩方の論考のようにそれぞれの食文化の変遷と地方史の変遷は大いに関係がある。大村地方を支配してきた大村市の歴史とともに考えねばならない。


 大村氏初代の大村直澄が伊予国大洲より大村寺島に上陸したのは正暦五年(九九四)と言われているが、この説については、大村史談会の九田松和則先生の著書「大村史」には次のように記してある。


 この起源説は永く継承されながらも疑問ある説と言われてきた。


 九田松先生は次に東妙寺文書、川上神社文書を引かれて大村七郎太郎の名が一二三七年(嘉禎三)頃より記されていると言われている。


 次に長崎が開港された元亀二年(一五七二)頃の長崎地方の領主は長崎甚左衛門で大村純忠(一五三三~一五八七)の支配下にあり、甚左衛門の室は純忠の娘トラであった。


 また、大村純忠(十八代)は大村純前(十七代)の実子ではなく、島原有馬氏より養子として大村氏を継承している。

 この事は長崎開港の最初の街づくりにも大きな影響があった。純忠が最初、長崎の街を造ったとき純忠は、実家の有馬氏に援助を仰いでいる。

 その事は長崎初期六町の中に島原町、大村町があり、島原町の代表が長崎の町の代表であった。 其の故に長崎の街には、大村地方の食文化、島原地方の食文化、そして更に当時の長崎には南蛮船の入港・キリシタンの布教もあったので、南蛮食文化の影響もあったと考えている。



二、大村すしを考える


 すしの語源は酢(酸)である。奈良時代すでに、酢、酢滓、糟交酢、市酢などの文字があり、「酢の文字は中国の文字である。昔は倉(ソウ)、また作醋」。和名は須(す)(和名抄)、また「カラサケ」とも言い、「米二石八斗五升より酢二斛五斗六升五合を造る」と記してある。(関根眞隆先生著・奈良朝食生活の研究)和漢三才図会には酢の和名は須之(すし)とある。


 其の故に「すし」の語は和名であり、和名抄一六には「酢につけた魚肉・魚肉を飯と共に圧し酸味をつけたもの」と記し「すし」は魚の保存のため考えられたもので、「飯」が加えられたのは保存用の麹を早く繁殖させるものである。この酢(すし)の型を今に残している物に「大津の鮒鮨(ふなずし)」がある。


 「大村すし」の由来について山中鶴氏は「長崎県大百科事典(長崎新聞社刊)」に次のように記しておられる。


文明十二年(一四八〇)十六代大村純伊(すみこれ)が念願の領地を奪回し、再び大村の地に帰ってきたので領民は喜びの食事の用意をしたが急な事であり取り合えず「もろぶた」にご飯を広げその上に魚の切り身・野菜の味つけの物を出した。

将兵は脇差しで角切りにした手づかみで食べたので別名「魚ずし」とも言われた。


 大村純伊が文明六年(一四七四)十二月有馬軍と合戦した中岡合戦の事については、前記九田松先生「大村史・中岡合戦」を読まれとよい。この合戦に敗れた純伊は加唐島(佐賀県)に走り、再び大村の地に復帰したのは永正四年(一五〇七)と記してある。



三、十六世紀頃のすし



▲出島に輸入されたオランダ焼(越中文庫)


 大村純伊に領民が用意した頃の「大村すし」の文献は一六〇三年長崎にあったイエズス会本部で、神父達の布教用の教材として編纂されたポルトガル語の辞書Vocabvlario da Lingoa de Japan(日葡辞書・土井忠生他訳・岩波書店刊)に「スシ」の言葉が収録されている。


 Suxi 長もちするように、そして其のまま生で食べるように飯や塩を加えて調理した魚。

 Suxio 他の物につけてたべる汁(ソース)又はそれに類したもの

 Suxi uo Zara ある種の酢づけの汁(Escabeche-Nuta)を入れる小皿

 Nuta Nutanamasu(ヌタマナス)、Nutaaye(ヌタアエ)、Namasu(ナマス)等の言葉も収録されている。



 領民が純忠のために用意した「すし」は酢漬の魚であったので、脇差しで切って食べたのでありましょう。

 其の故に現在でも家庭で「すし」を用意する時には「すしをつける」と言っている。



四、 現在の大村すし


 私が昭和三十年頃、長崎県下の文化財の調査に参加させて戴き西海町面高(おもだか・現西海市)の日蓮宗の遠照院をお訪ねしたとき馳走になったのが大村(西海)ずしであった。それは私達のために、遠照院婦人会の皆様が「西海ずし(大村すし)」作りの名人・横瀬浦の橋本幹吉さん、河内の高橋幸仲さんの指導をうけながら、前夜から用意して下さっていたそうである。


 そのすし作りの第一の秘伝は、先ずご飯を炊く水と火の加減、其のご飯のさまし具合を良くみて、酢と砂糖を加え、之に少し味をつけたコボウ、季節によってはフキなどの具を刻み込んで、混ぜ合わせ大きなすし箱に先ず一段を詰め、其の上に酢でころした魚の身を入れ、二段・三段と魚と飯を重ね、すし箱の蓋の上に人が乗ってギシギシと重みを加えるのだそうである。


 スシ用の魚はアカムツ、アジ、黒イオ、チヌ等がおいしいそうである。


 このスシを切るのが仲々難しく、家には家伝のすし切り包丁があり、女子供には任せず家の主人が腕を披露して切るのだそうである。「各家庭にはそれぞれ自慢の味があり、工夫されていますよ」と同町の帰命寺の古川御住職が私に話して下さった事がある。


第39回 長崎料理ここに始まる。(十一) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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