第38回 長崎料理ここに始まる。(十)

一、はじめに



▲ポルトガルの民芸(越中文庫)


 前回より私は、本誌に主として特色ある長崎の食文化を取りあげ書かせて戴くことにした。


 先ず第一に長崎県の特色は地理的な理由と海流との関係もあって、古代より韓国・中国・南方諸国との交流に深くかかわりがあったので、県下の食文化発展の上には其の交流市場に深く影響されるところが多く、更に其の異国の食文化が全国的に次第に普及し、現在の我が国食文化の起点となっているものが多いと言われている。


 前回取りあげた対馬の食文化にしても、我が国の古代米のルーツとして知られている赤米について、今尚、対馬厳原町豆酸には国選択無形民族文化財に指定されている「亀トの習俗」と共に稲の原種とされている「赤米」の神事が伝承されている。これによって現在我が国の主食となっている米は対馬方面より伝えられたものであろうという論考も多い。



二、五島方面と食文化


 五島の食文化も、深く大陸文化との交流によって発展している。長崎古代史によると古事記・風土記ともに五島の事を値嘉(ちか)島と記し、其の島は大別して大近と小近があると記してある。


 其の地名の由来については「景行天皇(一四七〇~)・平戸志々伎宮ノ浦の行宮に在りし時」近くに見えた島々に大近・小近と名付けられたと記してある。小近は現在の小値賀(おじか)島であり、大近は福江島方面であるとされている。次いで天武天皇六年(六八四)には韓国より五島に漂着者の記録があり、光仁天皇宝亀七年(七七六)以来は遣唐使船が度々五島の港に来航した事が記してある。十四世紀の和寇時代以後には唐船も度々入港しており、一五六〇年代になるとポルトガル船も来航し、一六〇四年には五島領主玄雅も朱印船を柬埔寨(カンボジア)方面に出している。


 次いで一六一三年には平戸イギリス商館長はイギリス船を五島公の城下町福江に入港させ、我が国初の唐藷(さつま藷)の種芋を五島と平戸に伝えたとされている。


 唐藷については享保四年(一七一九)長崎の人・西川如見が甘藷のことについて彼の著書の中に次のように記している。


 長崎には薩摩より伝えて今は九州に流布す 唐人は酒にも造り、又は粉を取て餅にしたるは上品の物なり(長崎夜話草)長崎では唐藷の事を「ジュキイモ」と親達は言っていた。この呼び名は多分「琉球方面より持ち渡って来た芋」という意味であったと考えている。


 又、諫早方面では唐藷の事を「ハッチャン」とよんでいるし、五島方面では「コッパ藷(いも)」ともよび、島原方面に行くと唐藷の煎(デンプン)で作った麺を「ロクベエ」とよんでいる。


 この語源について、長崎県は稲作のできる耕地が少なく、段々畑の多い処であり、甘藷は稲作に代わる重要な食料で、保存食として種々工夫したものがつくられていたことを物語っている。


 「ハッチャン」と言うのは生(なま)芋を削り(はつる・けずるの語)天日に干して保存するとの意であり、「コッパ」とはこの天日に干した型が「木を削った時にできる木屑(木っ端・こっぱ)」に似ている意であり、「ロクベエ」というのは「コッパ」を轆轤(ろくろ)で粉にひき麺につくったものだと先輩方より教えられた事がある。



三、スペイン風イカ料理



▲SEVILLAの色皿(越中文庫)


 私が二十六聖人記念館長のパチェコ神父(日本名・結城了悟)にお供してスペインのセビリアに行った時、神父様が「この地方には名物のおいしい料理Calamares en Sutintaがあるから御馳走してあげよう」と食堂に連れて行って下さった。料理の意味は「鳥賊の墨料理」という意味にあると教えられた。料理はチーズの中に鳥賊の墨を入れ肉と野菜を煮込んだ料理でスペインのワイン料理には良く合う料理で、実においしかった。如何にも此の地に来なければ味わえぬ風味ある料理であったが、食べ終えた後は口の中が真黒になっていた。


 神父さんから「美味しいからと言って、あまり食べ過ぎてはいけない」と言われたのに、私はあまりの美味しさに隣の人の分まで食べ、食べ過ぎ飲み過ぎで翌日は神父様に大変迷惑をかけた思い出がある。


 其の後、小値賀島に行った時、私は其のイカの墨料理に出合ったのである。其れは小値賀の小さな「お寿司屋さん」で、そこの前菜に出された和え物にイカの墨がかかっていた。「このあたりではイカの墨を食べるのですが」と言うと、お寿司屋さんが私に「あなた食べないのですか」と言われた。


 一体に、小値賀島は同じ五島といっても平戸松浦藩に所属しこの島の歴史書によれば平戸松浦家は最初、志佐方面より之の小値賀島に上陸、元徳年間(一三二九)平戸に渡ったと記してある。


 その故に小値賀には、沖の神島の遺跡や長崎県指定の文化財も多く、最近では明版一切経や元亀元年(一五七〇)銘の名号石等が発見されている。


 其の後、私は知人のお世話で土地の古老島田トメさんの家を訪ねて次のような「イカの墨入り和え物」の話をお聞きしてきた。


 その調理法は、この島で取れたばかりのイカからスミ袋をこわさにように上手に取り出し、湯をわかしユデておくのです。この墨を「ミソあえ」に入れるのです。ミソは勿論自家製です。味噌をすり鉢に取り砂糖・酒を加えて味をつけ 其れに先ほどユデておいた「イカの墨」を入れて良く摺っておきます。その味噌の中に別鍋でイカの身、白菜、大根、ホウレン草等を茹でて頃あいをみてあげて刻み、よく水をきっておき、それを先ほどの「墨入りミソ」と混ぜ合わせると出来上がりです。


 一体この墨料理は誰が教えたのでしょうか。せっかくの料理を墨で真黒にしてしまう訳ですが、イカの墨には捨てがたい味と香りがあるのです。然し、舌つづみを打った後は口の中は真っ黒になっています。


第38回 長崎料理ここに始まる。(十) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

検索