第30回 長崎料理ここに始まる。(二)

はじめに


 私は始めより食文化研究を専門にしていたわけではなかったが、私が長崎市立博物館在職中の昭和五十一年八月長崎司厨士協会の方々より、全国司厨士大会を長崎で開催するので其の記念誌として「長崎西洋料理史」をまとめてくれとの依頼を受けたのに始まっている。そして昭和五十七年「長崎の西洋料理-洋食のあけぼの-」(東京・第一法規社)を発刊した。そして、続いて「卓袱考」「長崎菓子考」と各方面より進められるままに執筆しているうちに、いつのまにか私の言う「長崎学研究」の中に長崎食文化とうい項目を加えていた。


 この長崎食文化の事を知られた「みろくや」の先代社長故山下泰一郎氏が昭和四十四年九月より年六回「長崎食文化を学ぶ会」を開催したいので協力して戴きたいと依頼を受けた。此の学習会も今年で第百五十回になりますよと現社長の山下洋一郎氏より先日お話をお聞きした。


 其の頃、山下前社長より「うちの機関誌・味彩にも何か投稿してくださいよ」との依頼を受けた。そこで私はとりあえず寄稿したのが「長崎料理ここに始まる」であった。



▲伊万里焼染付皿


 私は昭和三十一年十二月、六十歳の市立博物館定年後、長崎純心女子短大の教壇に立つ事になったが、ここでも私の言う「長崎学」を大きく取り上げて戴き、其の中のひとつに長崎学文化研究所を置かせて戴いた。更に一九九五年には「長崎学・食の文化史」を発刊して戴いた。更に二〇〇二年には「長崎学・食の文化史」は好評であるので「續・食文化」を編集する事になった。次にみろくやの山下社長より私が今まで「みろくやの味彩」に寄稿した文章も次号には集録されてよろしいとの事であった。


 二〇〇二年九月私は味彩に寄稿した一号より十九号までの稿を整理し、純心大学長崎学研究「續々・長崎食の文化史」に集録発刊することができた。此の発刊については各方面よりの御要望が多く、増刷することになった時、みろくやの山下社長が援助してくださるとの事となり一同大いに感謝申し上げた。



一、南蛮料理編


一五七一年春ポルトガル船が貿易のため初めて入港した年を長崎開港の年としているが、実は其の年より早く医師でイルマンであったルイス・アルメイダが長崎甚左衛を訪ね、キリシタンの布教が開始されているので、此の時より長崎の人達はパンと葡萄酒に接していたはずである。


 然しポルトガル船の来航は長崎より早く一五五〇年すでに松浦氏の城下町平戸に入港し、其の年ザビエルも亦・平戸の町で布教を開始し以来一五六〇年まではポルトガル船は平戸に来航していたのであるから長崎の街の人達より早く平戸の人達は南蛮料理に親しんでいたはずである。


 当然そこでは牛肉が食べられていたのである。この事について私は二十六聖人記念館長結城了悟神父より平戸の初期洋風料理について「当時平戸に布教に来ていたフェルナンデス神父が一五六〇年インドのゴアよりローマに宛てた書簡の中に平戸の町の食文化の事が書いてありますよ」と教えて戴いた。その手紙には次のように記してあった。


日本の人たちは何でも食べています(平戸の町では)。然し、坊さんのみは牛肉を食べない。此の平戸の町にはポルトガルと同じ食料はありますが、其の量は少ない。平戸では働く人が少なく、飢餓する人が多い。又この地方は非情に寒い。


 平戸の町には今もカスドースという菓子が残っている。この言葉はポルトガル語のカステラ・ドースであると考えられている。カステラはBolo de Castelaであり、ドースはdoce甘いという意味である。



▲幕末より長崎に多く輸入された中国紅絵茶碗


 江戸時代のオランダ通詞楢林氏の記録の中にもパウンドウスという菓子の名が記されてあり、其の説明には「蜜を煎じて卵をかけて煮る」と記してある。


 一五七一年以来、色々と政情の事もあり、ポルトガル船の入港は長崎一港となっている。そして更に長崎地方の領主でキリシタン大名であった大村純忠(洗礼名ドン・パルトロメ)は一五八〇年長崎と其の隣村茂木の地をイエズス会の知行地として寄進している。そして更に一五八四年には大村純忠の甥で島原地方の領主有馬晴信が佐賀龍造寺氏との島原の合戦で勝利した感謝のためイエズス会に長崎の隣村浦上村を寄進している。


 これらの事により長崎の街は、我が国におけるキリスト教布教の中心となり長崎岬の先端(現在長崎県庁の地)に当時我が国最大の教会であった「被昇天のサンタマリヤ教会」が創立され、其の教会敷地内にはイエズス会本部・修道院・学校・印刷所等の多くの施設が建設され毎年のようにポルトガル船が入港し、我が国における西欧文化を移入できる唯一の港(街)として長崎の街は繁栄してきた。


 年と共に全国より多くの商人たちが長崎の港に集まってきたが、そこではキリスト教以外の人達の参加は認めなかった。其の基本には長崎の街はイエズス会の知行地であり、この地方の領主大村純忠は熱心なキリスト教徒であり、大村領内における社寺のすべては破却し、大村領内は全てキリシタンであったので、他宗派の人達は領内に入る事はできなかった。


 そこで、当時はイエズス会に好意を持った商人意外は長崎貿易に関わる事はできなかった。此の時期・博多・堺方面の商人たちが多く長崎貿易に参加しているが、これらの人達は全てキリシタンでありキリスト教に厚意を示す人達であった。


 そして当時の長崎の街の様子は多くの南蛮屏風によく描かれている。(以下次号)


第30回 長崎料理ここに始まる。(二) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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