第174号【長崎湾沖を見わたす善長谷教会】
長崎駅から長崎港湾沿いに国道を南下。約30分ほどで長崎市深掘町に到着。
潮の香りに包まれたこの町はぺーロンの盛んな漁師町。町の背後には城山(じょうやま)と呼ばれるなだらかな山が連なり、のどかな自然に囲まれています。
長崎市の中心部からちょっと離れたところにある深掘は、江戸時代には佐賀の鍋島藩の支藩でした。現在も当時の武家屋敷跡が一部残っています。歴史的にたいへん興味深い土地柄ですが、深掘については別の機会にご紹介するとして今回は深掘から城山の山道を約50分ほど歩いて登ったところにある善長谷(ぜんちょうだに)教会をご紹介します。
山の中腹に建つ善長谷教会(長崎市大籠町善長谷)は木造の小さな教会です。周辺には畑と数件の民家があるだけ。ここからの眺めはたいへん良く、波光きらめく長崎湾沖のパノラマが広がります。特に夕日が沈む時の眺めは格別といわれ、アマチュアカメラマンたちの姿も度々見かけます。
教会の外観は、赤紫と白のペンキが塗られ印象的な色合いです。現在の教会は、明治28年(1895)に建てられた木造の教会が老朽化して昭和27年(1952)に再建されたものです。それから半世紀以上も経っているわけですが、手入れが行き届き、厳かで清清しい空気が漂っています。
この地の開拓は、江戸時代文久6年(1823)に、7所帯の家族と2人の独身者が移住したことにはじまります。彼ら移住者が鍋島氏より与えられた居住の条件には、山の上にある八幡神社の祭礼を行うこと、藩主用の水汲み役を果たすこと、地元のお寺の檀家に所属することなどがありました。移住者らは実はキリシタンの里のひとつとして知られる西彼杵郡三重郷樫山の出で、隠れキリシタンでした。彼らは藩の義務を隠れ蓑とし、密かに信仰を続けたのです。
「善長谷」の地名の由来は、あるお坊さんが、この地で厳しい座禅の修業を行い悟りの境地に至ったことにより「禅定谷」と呼ばれていたのが、いつしか「善長谷」になったという説と、異教徒のことをスペイン語で「ゼンチョ」と発音することが「善長」の語源になったのではないかという説もあります。
善長谷の信者たちは、明治維新後に信仰の自由が許されると、宣教師の呼びかけに従い、カトリックの教会に復帰する人もいましたが、別の土地に移り潜伏キリシタンの道を選んだ人もいたそうです。
現在、教会の前にある木には、小さな鐘が結び付けられています。お祈りの時間を知らせるために鐘を鳴らす地元の信者さん。信仰を守り続けた先祖の熱意を今に伝えています。
◎参考にした本
「長崎の教会」(カトリック長崎大司教区司牧企画室)、
「長崎の史跡~南部編」(長崎市立博物館)