第43号【お江戸に高島秋帆のなごり】
東京の板橋区に大きな団地で知られる「高島平(たかしまだいら)」という所があります。この地名は日本の西洋砲術の祖「高島秋帆(たかしましゅうはん)」の名にちなんで付けられたものです。(´-`)??ハテ、シラナイナ
さて、いきなり東京の地名の話から入ったのには理由があります。高島秋帆は江戸時代後期の長崎の地役人ですが、彼の人生はたいへんお江戸との関係が深いものでした。今回は幕末に数奇な運命をたどったこの人物についてのお話です。(“)面白イ話ナライイケド…
▲高島秋帆旧宅の門扉
(長崎市東小島:国指定史跡)
秋帆が生まれた家は代々、長崎奉行の下でこの地を支配・管理する地役人、「町年寄(まちどしより)」で、外国貿易を統括する「長崎会所」で事務全般を仕切る役目も兼務。またさらに鉄砲方として長崎港の内外に設けられた港を警備するための砲台(台場)の責任者も務めていました。
▲秋帆旧宅地の井戸と土塀
向こうに見える山は稲佐山
17才で家を継いだ秋帆は、早くから国防の必要性を感じ、私財を投じてオランダ人から砲や銃などを購入し、先進の西洋の砲術を研究していたそうです。そんな折、アヘン戦争(1840~1842)で清国が英国に港を封鎖されたことをオランダ人から聞き、幕府に新しい砲術を採用し日本も近代的な国防を考えるべきといった内容の意見書を提出しました。これが有名な「天保上書」といわれる書状です。(-o-;有名ってイワレテモ…
幕府も危機を感じていたのか上書を受けた老中・水野忠邦は、秋帆に江戸の市街地から遠く離れた徳丸ヶ原(ここが冒頭の高島平)で、西洋式大砲発射の演習を命じます。長崎から門人を率いてお江戸へ上がった秋帆。天保12年(1841)大勢の見物人の中で行われた演習は見事成功! 発射された大砲の音は、江戸中に響き渡り、たいそう人々を驚かせたそうです。(゛)ソレデ地名ニ…
この演習で幕府に認められた秋帆でしたが、翌年、高島家は突如お家断絶となり、秋帆とその子、浅五郎ら他10名は江戸送りとなり牢屋へ入れられます。これは同僚や旧砲術家らのねたみによるいわれなき弾圧でした。秋帆の成功と才能は、周囲の大きな嫉妬を買ったようです。(`ε`)ヒドイハナシダナ
10年あまりも牢獄に押し込められた秋帆らが解放されたのは嘉永6年(1853)、日本が諸外国に開国を迫られている時でした。"外国船は打ち払うべし"という風潮の中で、秋帆は「嘉永上書」という国防慎重論を書きます。それは「いま外国と戦争してはならぬ。それよりまず国防を充実させよ。その費用は諸外国との貿易による利益をあてるべき」といった内容で開国を説いたものでした。
出獄後は砲術の師範役になるなど、幕府に重く用いられた秋帆は、慶応2年(1866)東京・白山の屋敷で、明治維新を待たずして病死します。69才でした。長崎に残る彼の邸宅跡(長崎市東小島)には、砲術練習所跡や砲痕石が残されています。(^^;大砲はナイヨ
▲砲術練習所跡に残された
砲痕石(秋帆旧宅敷地内)