第41号【長崎ことはじめ(通信編)】

 今回は長崎ことはじめシリーズ(!?)通信編をお届けします。ひと口に「通信」といってもその意味はとても広く、広辞苑によれば『人がその意志を他人に知らせること。郵便・電信・電話などによって意志や情報を通ずること』とあります。


 今やインターネットで世界中がつながっていますが、電気通信による情報ネットワークの歴史をひもとけば、1837年モールスによる電信の発明にまでさかのぼります。「トン・ツー」という電流の長短をテープに記録する「モールス信号」はご存じの方も多いはず。長崎の阿蘭陀通詞たちは出島のオランダ人や洋書によって、このモールスの発明を早くから知っていたといいます。


日本初の電信機も、出島に持ち込まれたものがはじめだといわれていて、1854年(安政元年)に幕府の勘定奉行が出島を訪れた時、電信機を見て『脈一つ動くうち百里の内に通達合図の出来る品』と驚きぶりを記しています。\(◎◎)



▲初期の通信機(長崎市歴史

民俗資料館・展示パネルから)


 出島の電信機とはまた別の話になりますが、日本初の国際電信も長崎がはじまりでした。明治政府は1870年(明治3)に、上海-長崎間およびウラジオストック-長崎間の海底電信線を長崎に陸揚げすることをデンマークのグレートノーザン・テレグラフ社に許可します。翌年には電線の敷設が完成し、通信が開始されました。これでめでたく日本はヨーロッパをはじめとする世界各地と電信線で結ばれたのでした。(^^)//。.:¨:・‘★パチパチ。



▲国際電信発祥の地(左)と

長崎電信創業の地の碑

(長崎市南山手町)


 さて、モールスが電信機を発明してから約30年後の1876年(明治9)、アメリカのグラハム・ベルが電話を発明しました。日本はベルの電話器を輸入し、国産の電話機制作に乗り出します。そうして1890年、東京~横浜で電話が開通、これが日本の電話創業とされています。


 しかし長崎ではそれよりも約8年くらい前に電話が使われていました。イギリス人貿易商のトーマス・グラバーが南山手にある自宅と、長崎港から約14.5kmほどの沖合に浮かぶ小さな島・高島に建てた別邸との間に電話線を引いていたのです。これは日本初の私設電話といわれています。いかにも幕末~明治期に数々の偉業を成し遂げたグラバーさんらしい話でもあります。(¨)ヘエ…。



▲電信発祥の地はグラバー園に

続く坂の入口付近にあります。

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