第37号【異国を描いた宮仕えの画家たち】

 南の方ではすでに梅雨入りした地域もあるようです。桜前線のあとは梅雨前線。日本の季節の流れと共に起きるさまざまな自然現象って本当に面白いですね。今は新緑がとても美しい。思わず見とれてしまいます。('_' )ジーッ


 さて先週、江戸時代の阿蘭陀通詞についてお話しました。彼等は「言葉」で異国の文化を国内に伝えましたが、一方「絵画」という方法で伝える者もありました。唐絵目利(からえめきき)といわれる地役人です。(□_□)メキキ?


 ここでいう唐絵目利の「唐」は海を渡って来たものという意味で使われ、外国を指すのだそうです。


そして目利(めきき)といえば、私たちは「鑑定士」の事だと思います。確かに、唐絵目利のお役人さんも外国の絵画を鑑定していました。でもそれだけではありません。異国からやって来た鳥や動物等を写生して記録するのも大事な仕事のひとつだったのです。そしてたとえば珍しい鳥等が外国から入って来たとすると、まず写生したものを幕府に送り、欲しいかどうかを確認した後、実物を送り届けるということもしていたようです。メールで送るなんてことができない時代です。書簡のやりとりだけでもかなりの時間を要したに違いありません。〔“〕ウンウン。



▲ヒトコブラクダ(作者不詳)

(長崎市立博物館蔵)


 ところで当時の長崎は、貿易で入って来た南蛮絵や中国絵画などの影響を受けて洋画派、漢画派といったさまざまな流派の画家がいました。そんな長崎画壇の中心的存在だったのが、外国の絵画をいち早く目にすることができた唐絵目利の人々でした。彼等もまた阿蘭陀通詞と同じく世襲制の職業です。(当時はそれが普通。)名門といわれた荒木家では、今も日本の画壇に名を残す石崎融思(いしざきゆうし)、荒木如元(あらきじょげん)といった優れた画家を輩出しています。(~ヘ~;)ユウシ? ジョゲン?



▲蘭人鷹狩図(一部) 荒木如元

(長崎市立博物館蔵)


 融思は長崎の名所や丸山遊女、そして唐人屋敷やオランダ商館など江戸後期の長崎の風俗を描いた「長崎古今集覧名勝図絵」(長崎市立博物館蔵)の作者として知られています。また鮮やかな色彩で描かれた「唐蘭館図絵巻」(長崎県立美術博物館蔵)は、建物や人物の様子がこまかくストーリー性を持って絵画化されていることから、文章の資料では読みとれないようなことがわかる第一級の資料として扱われています。ちなみに荒木家の石崎融思が「石崎」姓なのは、荒木家の子だった融思が、同じ唐絵目利の石崎元徳の家を継いだからです。石崎家へ融思を出した後、荒木家を継いだのは、養子の如元でした。如元はビードロ画や油絵を巧みに描き、日本における初期の洋画家を代表するひとりとなったのでした。(・_・)知ル人ゾ知ルオ話。



▲蘭館図絵巻(一部) 石崎融思

(長崎県立美術博物館蔵)


 唐絵目利にしても阿蘭陀通詞にしても、当時は柔軟な感覚で養子縁組がされていたようで、個人の才能や才覚を上手く見極め、活かしながら家業を守り継いでいたようです。

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